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五感のささやき 2018年度

印刷用ページを表示する更新日:2018年4月18日更新

11月 振り返って(20年の歩み)

20年前はバブル経済破たん後の財政運営が厳しい時代の中、全国的には地方分権に向けての動きと、それに伴う市町村合併の議論が白熱する時期でもあった。足柄上地域も例外ではなく、合併について2年ほどかけて議論を深めた結果、市町合併は時期尚早であり、まずはさまざまな分野の広域連携の強化を行うべきという結論に至った。なお、この時期に南足柄市消防と足柄上消防組合の統合も進められ、平成12年度に足柄消防組合を設立した。その後さらに広域化が進み、平成24年度には小田原市消防と統合し、県西2市5町を管轄とした新たな小田原市消防本部が誕生した。

平成13年度からスタートした大井町第4次総合計画(夢おおい21プラン)では、県とも協議し、平成22年の人口を平成12年当時の人口から約2,200人増の18,800人と想定することにした。なお、平成20年に人口1,800人を達成することができた。

年越しにまつわる思い出もある。1999年の末は「コンピュータ西暦2000年問題」が世界的にも大きな話題となった。これは、一部システムが西暦の下二桁で年号部分を管理していたために、2000年になった時に一斉にトラブルが発生する可能性があったという問題で、この時には職員と大晦日から元旦の未明にかけてトラブルが発生していないか検証を行った。幸いにも特に問題もなく年を越すことができ、心底ほっとしたことを覚えている。

翌年の2001年への年越しは、21世紀を迎えるということで、国を挙げてカウントダウン事業が行われた。大井町でも町商工振興会やひょうたん文化推進協議会、体育協会、文化団体連絡協議会などの協力でイルミネーションを点灯し、よさこい踊りや合唱などでにぎやかに年越しをしたことが今でも懐かしく思い出される。

この20年間はさまざまな事業に取り組んだ。ハード面では大井小学校体育館や大井幼稚園、オール電化を導入した学校給食センターの建て替えをはじめとし、各教育施設の改修工事や強化を行った。ソフト面では、幼稚園での3年保育や預かり保育の実施、各小学校でのICT教育の導入、相和小学校の小規模特認校制度の導入など、教育環境の充実を図った。また、防災の強化のために、45年振りに消防団第2分団を復活させるとともに各分団の待機宿舎の建て替えを行った。なお、待機宿舎の建て替えは現在第8分団を行っており、今後も続けていく見込みだ。さらに、地域コミュニティー強化のために、その拠点となる自治会館の建て替え工事も行った。その他、税の公平化のため、平成12年度から県の税務徴収業務経験者を嘱託員として採用し、専門的な知識を借り、税収納力強化を図った。また、給食費の前払い制度の導入などの工夫により滞納ゼロを実現した。

福祉や社会制度も大きく変わる時代でもあった。高齢化社会を迎え、平成12年度から介護保険制度が、平成20年度からは後期高齢者医療保険制度がスタートした。また、新たな少子化対策として「子ども・子育て支援新制度」が、平成27年からスタートし、「社会全体で子育てを支える」という基本理念のもと、本町においても、母子健康事業の充実や、地域子育て事業等の健全な運営、学童保育の受け入れ拡大など、子育て世代への支援を包括的に提供することができた。

平成21年から2年間、神奈川県町村会という県内全町村が参加する組織の会長を務めたが、これも深く印象に残っている。毎年各町村で大きな財政負担となっていた情報システムに係る費用を軽減するために県下14町村で「神奈川県町村情報システム共同事業組合」を設立した。当時先駆的であったクラウドシステムを導入して全国的なモデルケースとなった。また、後期高齢者医療保険制度を運営する神奈川県後期高齢者医療広域連合が運営を開始した時には、大都市である横浜市と、小さな自治体である清川村ではあまりにも格差があるにも関わらず、その運営負担金の均等割が10%であった。この制度の運用開始前から町村会は均等割5%を主張していたものの、交渉期間が短く押し切られた形でスタートしたため、大きな不満であった。そこで、当時連合会会長であった故服部茅ヶ崎市長に相談したところ、連合会総会で話題にしていただいた。そして、当時の阿部川崎市長にお知恵をいただき、均等割5%に大幅に緩和された。町村という人口規模でいえば決して大きくはない声にも耳を傾け、お力添えいただいたということは忘れがたく、皆様には本当に感謝している。

この20年間は県からも多大なご支援をいただいた。町の大動脈である県道小田原松田線、足柄紫水大橋、篠窪バイパスの開通、都市計画道路和田河原・開成・大井線の事業認可など、県のお力添えなしでは成し遂げられなかった事業は多々あり、感謝の念にたえません。

黒岩知事が重要施策としている再生可能エネルギーについても、県からの後押しのおかげで2メガワットと13メガワットの太陽光発電所を町内にいち早く誘致することができた。また、もう一つの重要施策である「未病」については、その拠点施設の整備地として本町を選んでいただき、県西地域の活性化の拠点ともなる「BIOTOPIA」を本年4月に第1期オープンをすることができた。この施設は町内外から多くのお客様にお越しいただき、早くも35万人の方にご来場いただいている。

この地は、昭和43年に第一生命保険相互会社が大井本社として開業した。以来、同社には町の発展に多大なご貢献をいただき、その存在なくして大井町の発展は語れないところであり、心より感謝を申し上げたい。しかし、平成23年度の移転・再編により、大井町から転出することとなり、その後ブルックスホールディングスに社屋・敷地全体が譲渡され、新たな事業展開を図ることになった。今後も町の未来に向け、神奈川県・ブルックスホールディングス・大井町の三者協定をもとに、さらなる発展を願うところである。

一方で念願であった役場庁舎北側の土地区画整理事業も順調に進展しつつあり、完成すれば新たな中心市街地の形成、公園の整備、定住の促進などが期待され、町の新たな顔となることを期待している。

最後にお詫びしなければならないことが一つある。私の公約でもあり、8年間にわたって検討してきたパークゴルフ場については、建設や維持管理にかかる費用が利用料金収入よりも上回る試算となった。このような状態では運営が成り立たず、後年大きな町の財政負担としてのしかかることが予想されるため、この事業計画は私の責任においていったん白紙とさせていただきます。私自身断腸の思いでありますが、町の将来を考えてのことですので、ご理解を賜りたく存じます。

20年の長きにわたり、町民の皆様をはじめとし、町議会議員、行政委員、各種団体、神奈川県当局、各市町村、企業や事業所の皆様など、ここにはとても挙げきれないほどのたくさんの方から多大なるご支援・ご協力をいただきました。ここに改めて心より深くお礼申し上げます。誠にありがとうございました。

 

10月 振り返って(パート1)

平成10年12月22日火曜日が、私の町長就任式であった。大井町民の安全を願い、自らしたためた般若心経を胸に多くの後援者に見守られる中、初登庁した。役場庁舎正面玄関前で助役・収入役・教育長をはじめとした全職員からの歓迎の出迎えを受け、花束を頂いた。この感激は20年たった今でも鮮明に覚えている。

早速、3階の大会議室で行われた就任式の挨拶は緊張もあり、「公平・公正・無私で町政を執行するので力を貸してほしい」という平凡な内容だったと記憶している。近隣3市8町への就任挨拶まわり、町議会臨時会の開催、県知事・副知事をはじめとする県の各部局への就任挨拶、消防団の年末警戒への督励、そして28日の仕事納め式と、年内4日間の執務日は怒涛のうちに終わった。また、この間に当時の第一生命保険相互会社の森田社長や元宮家の賀陽様より就任をお祝いいただいた。

年末年始の休暇が終わった平成11年1月は4日の仕事初め式、町民新年のつどいに始まり、12日の消防団出初式と戸惑いながらも周囲の人々に助けられて、慌ただしくも順調に船出のように思えた。しかし、成人式を控えた14日だったと思うが、最初の波乱が訪れた。

その日、昼のニュースから平塚で若い女性の変死体が発見されたという報道がなされたが、平塚という現場の近さを感じた程度で聞き流していた。この日は夕刻に知人の通夜があり、小田原に出ていたのだが、携帯電話に連絡が入った。昼の平塚の事件で逮捕された容疑者が大井町出身であるため、報道取材陣が押し寄せているという内容だった。急きょ戻ると国道255号や役場駐車場にパラボラアンテナ付きのテレビ局の車が幾台もとまっていた。出身の小中学校に取材が入ることも想定し、教育長らと様々な対応をとることとなり、非常に苦慮したことを覚えている。

4月には飲酒後に自転車で駅に向かっている途中、農業用水路に転落し、亡くなった遺族の方から、1億1千万のうち自己過失30%とし、実質7,700万円の賠償請求をされた。農業用水路の管理者である大井町を相手にこの民事裁判は起こされたのだが、農業用水路は稲の育成のために暗渠化することができず、また管理の上から限られた所にしかフェンスなどの転落防止策は講ずることはできない旨を主張し、全面勝訴となった。

このように私の町長としての20年間の出だしはなかなか波乱に満ちていたように思う。当時、私の無二の友は、「“波乱の船出残すは静か航海”になるのではないか」と言ってくれた。その友も今はすでに旅立った。その後も様々なできごとがあったが、こうして今、穏やかに終わろうとしている。残された約2カ月半を大切にし、有終の美で締めくくりたい。

9月 感謝

今年は、私が平成10年12月21日に町長に就任して以来20年が経つ年であり、8月17日の誕生日で70歳の古希を迎える節目となる年です。また、「平成最後の」と様々な場所で冠される、日本にとっても大きな節目を迎える年でもあります。

先日行われた町議会定例会にて、今期限りで町長の職を後進へ託すことを表明しました。

昨年の暮れから、自分自身で勇退を心に決め、年末の後援会の幹部との会合で、私自身としてはそれとなく意志表明をし、家族には正月に伝えました。

町政を推進する上で、町長職に重要なことは先見性を持ち、方向性を見出すこと、そして判断を誤らないことであり、それには体力や気力が充実していなければならないと思っています。平時は健康ではあるものの、近年、風邪を引いてしまうとすぐには快方に向かわず、自分自身にイライラすることもありました。もし今後、大病を患ったとしたら周りに大きな迷惑を掛けることになるとなると考え、そんな心配からもここで身を引く決断を下しました。

20年の長きにわたり、町長職を務めることができたのは、何よりも町民の皆さま、また議員、行政委員、職員の皆さまのご理解とご協力があってのことと深く感謝申し上げます。また、後援会の皆さまからのお力添えが私の心の支えとなり、今日まで気力充分に活動することができました。両親からもらった健康な体にも感謝しております。

この20年間は、神奈川県知事をはじめ、他市町村の首長の皆さまや県の職員の皆さまにも多くのご示唆やご助言、ご指導を頂きました。さらに大井町に関係する企業、団体の皆さまにも多大なるご理解とご支援を頂きました。様々な方が町の発展のため、お力をお貸しくださったこと、感謝の念に堪えません。

今は12月21日の任期満了までの長いようで短い残された時間の中で、将来につなぐための取り組みを、きっちりとしておかなければと思っています。

取り急ぎ、9月13日の町議会定例会において任期満了をもって町長の任を辞する意志表明を行いましたことをここにご報告させていただきます。

本当に長い間、ありがとうございました。

8月 台風シーズン

今年の関東地方の梅雨明けは、6月29日と例年より22日も早く、その後は連日30℃越えが続いた。7月で30℃を切ったのはわずか7日間しかなく、7月21日には35.3℃を記録し、熱中症の注意喚起や対策が、連日報道され続けた。地球温暖化の影響もあるのかもしれないが、近年、気象の異常化が進んでいるように感じ、心配を抱いている。

今年は6月10日に台風5号が関東地方に早々と接近し、6月と7月で6回も台風が発生しており、台風の多い年であると思っている。アシナガバチが低いところに巣を作る年は台風の多い年になると昔からいわれており、この夏の初めに巣を探してみたところ、盆栽の枝の中や地上から20cm程のツツジの枝などで5つほど発見した。自然を観察することで、我が身を守るための情報を手に入れることができるのではないか、と感じた。

7月29日に東海地方に上陸した台風12号は、日本上空で偏西風が切り離されてできた「寒冷渦」と、北側からのチベット高気圧の影響を受け、日本列島を東から西へ横断するという観測史上初となる進路をとり、瀬戸内海沿いを抜けて中国地方で熱帯低気圧となった。

大井町では、7月27日に台風12号の監視体制を敷き、事前配備体制に入った。翌28日の14時13分に大雨警報が発令され、警戒配備態勢に入り、16時に警戒活動と応急活動の体制を整える「1号配備」という体制で警戒対策本部を設置した。また、風雨のピークが夕方から夜になることが予想されたため、自主的に避難をされる方を受け入れるための自主避難所を総合体育館に開設した。20時過ぎに風雨のピークは過ぎたため、自主避難をされた方はいられなかったが、警報が解除される29日未明まで設置し続けた。

これからも台風シーズンは続くのであろう。我が国は毎年、台風や地震の自然災害に見舞われていることもあり、国も災害時に備え、1週間程度の食料や飲料水の備蓄、身の回り品は備えておくことを国民に求めている。町でも町民の安全を図るために、台風やゲリラ豪雨などで何か心配なことがあれば、電話などで相談いただくことで、職員を現地に派遣し、状況を確認したうえで対応する準備はできている。

自然災害は防ぐことができない。しかし、自助、共助、公助をかけ合せて備えておくことで、その被害を最小限に防ぐことができるのだ。

7月 棚田の復活

このところ、里地・里山が見直されるようになってきている。昔から農業を営む際、木や竹などの農業資材や肥料にする落ち葉を里地・里山から補給していた。しかし、里山の自然は、農業の近代化と共に必要とされる機会が少なくなり、荒廃の一途をたどっている。里地に広がる棚田も同様に、全国的に荒廃化が進んでいる。

里地の棚田を維持していくことは難しい。山の傾斜地にある面積の小さい田んぼには大型の農業機械は導入できない。小さな田んぼが多いということは畦畔も多くなるため、その整備や維持に多大な労力が必要になる。さらに、棚田へ取水するには湧水を集めなければならないが、大きな河川があって、用水が確保しやすい平地の水田と違い、毎年苦心されているようだ。ようやく収穫された稲も耕作道が整備されていないため、人が背負って運ばなければならない。このように多大な苦労がかかる棚田は担い手を失い、荒廃化は進んでいった。

近年に入り、景観保全や環境保全の観点から、里地・里山が見直される中、棚田の復興にも多くの関心がもたらされるようになった。棚田保全のために全国的なボランティアが組織されたり、棚田のオーナー制度ができたりしていると聞く。

大井町にも相和地区には棚田があり、山田地区の棚田では「花と緑の会」が中心となり「田んぼ育成会」と協力して、都内の小学生や中学生に稲作体験の指導をし、棚田の荒廃化防止に努めている。

さらに東に進んだ高尾地区には、集落に入る手前に約五反分ほどの棚田が北に向かって広がる。北側の高台から眺める棚田の風景には心惹かれるものがあった。この棚田は中村川の源流から取水しているが、大雨の時には土砂が取水口に堆積してしまうなど、水の取り入れには苦労が絶えず、20年ほど前からその多くが耕作放棄地となっていた。

一昨年に地元農家9名で構成される高尾棚田保存会が結成され、取水堰の改修・耕作道の手入れが行われるなど、棚田の復活に尽力された。昨年の6月には酒米の吟のさとを植え付け、約30俵(1,800Kg)を収穫した。酒米はうるち米より収穫量が少ないので、豊作だと言えるだろう。

大井町には「地酒で乾杯を推進する条例」があることから、「大井町地酒で乾杯推進協議会」の協力を得て、この収穫された吟のさとを井上酒造で醸造し、口当たりがなめらかで爽快感もある辛口のおいしい日本酒となった。銘柄を「夢高尾」と名付けれられたこの酒は、4合瓶で約3,000本製造された。今年の2月3日に発売し、好調な売れ行きである。私も度々いただくが、多くの方々の知恵とご苦労のおかげで復活を果たした棚田に思いを馳せながら味わう夢高尾は格別だ。今年も既に吟のさとの作付けが行われ、すくすくと稲が育っているようだ。気が早い話であるが、今からできあがりを楽しみにしている。

 

6月 こころとことば

兼好法師の「徒然草」の中に、『身をやぶるよりも、心を傷ましむるは、人を害(そこな)ふ事なほ甚(はなは)だし』という一節がある。これは「身体を傷つけるよりも、心を傷つけるほうが、人にとってよっぽど害が大きい」という意味だ。

心に負った傷は容易に癒すことができない。そのことを私たち自身がわかっているようでわかっていないことが多い。人の心の傷の大きさに気づかないばかりか、自分が受けた傷の大きさに気が付かないこともある。人の心は意外なほどか弱いものである。 人類は「言葉」という便利な道具を、生まれてから自然と身に着けていく。幼い子どもの自己主張から始まり、自己表現を行ったり、心の様相を伝えたり、他人へ感謝の意を表したり、勇気付けたりとコミュニケーションを保つツールとして無くてはならない。しかし、言葉は時として使い方を間違えれば、人の心を傷つける凶器となってしまう。

議論が白熱して喧嘩腰に口調が荒くなる場合もあるし、自分にはそのつもりがなくても他人を傷つけてしまうこともある。過去の歴史をみても、話し合いを重ねた末に破談し、戦争へ発展した例は数多く存在する。

現在、大きな問題となっているパワーハラスメントやセクシュアルハラスメント、いじめの問題も多くは言葉からはじまる。

また、現代社会は物事の動きのスピード化が進み、価値観は多様化し、AI化も急速に進んでいる。目まぐるしく変化していく社会の中でストレスがたまり、気づかぬうちに心の病を患う人が多くなっているのではないかと感じている。

言葉は人を傷つけてしまうこともある。しかし、人を癒したり、勇気付けたりすることができるのも言葉である。各方面の努力により、働き方改革やワークライフバランスへの取り組みなどで生活スタイルは改善されつつある。私たちが何気なく使う言葉で疲れた身体や心が少しでも癒されれば、現代病と呼ばれる心の病はもっと減らせるのではないかと思うのである。

使いようによって言葉は毒にも薬にもなる。自分の言動にも注意を払わなくてはと思うのである。

 

5月 祝日に国旗掲揚

今年のゴールデンウィークは、真夏日があったものの五月晴れの乾いた風を心地よく感じた。道路や交通機関は大変な混雑で、観光地は賑わい、多くの人々が戸外での休日を楽しんだであろう。

さて、わが国の祝日は祝日法によって定められ、元旦に始まり12月23日の天皇誕生日まで、その年によって日数は変わるが、おおむね16~20日前後である。平成30年は19日で近年の中では多く、調べてみると日本の祝日の日数は世界第一位とする説と第3位とする説があり、我が国は世界的には祝日が多い国であるようだ。

気の早い人は、今上天皇が退位されたあとの12月23日の名称が「天皇誕生日」から「何の日」に変わるのかと関心を持っているようだ。

かつて国民の祝日には多くの家庭で「国旗」を掲揚していたが、近年ではみられることが少なくなって残念である。町内でも祝日に国旗を掲揚する家は限られ、近所では我が家も含めて4件ほどとなってしまった。あるとき、「大井町の成人式は国の示す“成人の日”より一日ほど早いため、どの日に国旗を掲げたらよいのかと尋ねられ、「町の成人式の日に掲揚してもらうのがよいのではないか」と答えたことがあった。

昭和30年代後半だったと記憶しているが、当時の町長・田村治平氏が、「時間厳守」「環境美化」「国旗掲揚」の三項目を町民に示し励行を促した時期があった。時間厳守と環境美化は現在でも皆さんの意識の中にあるのを感じるが、国旗掲揚については忘れられているように感じる。

「国旗・国家法」が制定されて久しいが、町民に限らず、国民に浸透しているとは言えないだろう。様々な事情や考え方があるとは思うが、もっと多くの国民が祝日に国旗を掲揚し、その祝日の意義を考えることが必要ではなかろうかと思うのである。

 

4月  「未病バレー『BIOTOPIA』(ビオトピア)」から箱根山をのぞむ

足柄平野は母なる川 ・酒匂川を中心として両翼に広がっており、今でこそ住宅や工場などが混在しているが、昔から酒匂川の恵みを受けた田んぼが続いてる。5月には田植えをする姿がそこかしこで見られ、6月になると元気に育つ稲が一面緑の絨毯 (じゅうたん)のようになり、初夏の爽やかな田園風景が広がる。秋になると豊かに実った稲穂が黄金色に輝き、四季折々の美しさを楽むことがで きる 。また、足柄平野のむこうには屏風のように箱根連山が広がり、その彼方には富士山がそびえ立つ。その恵みによって田園は豊かに潤うことができるのだ。

箱根の山々は約40万年前から噴火を繰り返して形づくられ今日に至り、日本のみならず世界でも有数の観光地となっている。この箱根の山々やその自然を活かすために、一市三町が平成24年に日本ジオパーク協議会から箱根ジオパークの認定を受けた。そして、今から2年ほど前に箱根ジオパーク推進協議会は二市三町で再編成された。なお、ジオパークとは地球活動の遺産とそこで見られる動植物や人々のくらしを主な見どころとする『大地の公園 』のことを指 し、箱根ジオパーク推進協議会は箱根の山々と自然を観光資源としてでなく、学術的にも世界に発信している。

4月28日にオープンする「未病バレー・ビオトピア」から、箱根ジオパークをのぞむと、男性が仰向けに寝ているような姿に見える。この伸びやかで雄大な眺めは心を癒し、病を吹き飛ばす効果があるだろう。また、この景色を生み出した40万年の歴史に思いを馳せれば己の存在はもとより人類の歴史ですら些末なものであると感じられ、もっと広い視野を持つことができ、元気をもらうことができると思う。

さて、大井町からは真鶴半島を含めてこの箱根ジオパークを一望することができる。そして町内のメガソーラー施設「きらめきの丘」には、箱根火山の活動でできた地層が保存されている。

箱根山を近くで楽しむのもよいが、このように少し離れて箱根山と足柄平野をひとつの形としてとらえることで初めて見えてくるものもあるだろう。ぜひとも多くの方々にこの雄大で美しい景色を見てもらい、心身ともに健康になっていただきたいものである。