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裸心版 2022年度

印刷用ページを表示する更新日:2023年3月10日更新

小田町長の裸心版 2022年度

○裸心版とは・・・

このタイトルは、町長としてのさまざまな体験を通じて感じたことを着飾らずに素直に『裸の心で発信』することで、町の進むべき道を皆さんにも考えてもらいたいという思いから「裸心版」としました。

※「羅針盤」は、船や航空機などで方位を知るための器具で、大航海時代の幕を開く重要な航海計器。

※広報おおいに掲載した原稿をWeb用に改稿して掲載しています。2カ月に1度程度の頻度で更新する見込みです。

第5回 2023年 3月  傘がない

 「都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども 問題は今日の雨 傘がない 行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ 君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ… テレビでは 我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべっている だけども問題は 今日の雨 傘がない…」
 古びた1本のカセットテープには、井上陽水さんが歌っている「傘がない」が入っていた。引き出しの奥から出てきたこの歌曲は、1972年にリリースされ、当初はヒットしなかったが、いつしか彼の初期の代表曲といわれるようになった。久しぶりに聴いてみたが、青春時代の記憶がよみがえってきた。
 しかし、この年齢になって聴き直すと、歌詞の内容に引っ掛かりを覚えた。作詞者の真意を考慮せずに解釈をするならば、若者の自殺という大きな社会的問題よりも、目の前の個人的問題を憂いているかのように聴こえてしまったのだ。69歳の今の人生観からなのだろうか。それでも歌詞に「それはいいことだろう?」と自問するようなフレーズがありほっとした。
 昨今、若者の選挙投票率の低さが報道されている。なぜ多くの若者は政治に無関心なのか。この問題には、さまざまな見解や分析論文が報じられている。私はこの歌から若者に対して、時代は変われど普遍的な真理のようなものを感じる。それぞれの世代のライフステージと生活環境で、社会への見方と価値観は変化していくものだろう。この歌の主人公は、大きな社会的問題を感じながらも、雨が降っているのに自分には傘がない、でも君に会いに行かなくてはいけないという厄介な事情が一番悩ましいことなのだろう。とある論評では「社会不安と自分が抱えている不具合な事情のあまりにも大きな不均衡さ、この曲の持つ何とも言いがたい虚無感や虚脱感は、時代を超えて心に染みるのかもしれません。」と書かれており思わずうなずいてしまった。
 我が国では、国や社会の問題を自分の問題として捉え、自ら考え行動し、主体的に参加する「民主主義の担い手」を育てるための「主権者教育」が、「18歳選挙権」の導入を機に注目されている。未来を創る若者の意識向上を切望するところである。

JASRAC 出 2301192-301

第4回 2022年 11月  ありがとう、にこにこパトロール隊

 毎朝、自宅を7時30分頃出て役場に向かう。その通勤路の交差点や横断歩道で、にこにこパトロール隊が子どもたちの通学の見守りをしてくださっている姿を見掛ける。 子どもの安全を守る活動を続けてくださり、本当にありがたいことだと感じている。

 にこにこパトロール隊の発足経緯を確認してみた。2001(平成13)年6月に発生した附属池田小学校事件をきっかけに、全国的に防犯に対する機運が高まった。そんな中、2003(平成15)年3月に大井・松田で通り魔殺傷事件が発生した。全国各地で子どもを巻き込んだ犯罪などが多発していた状況もあり、2005(平成17)年に防災安全課が各自治会に声掛けし、100人ほどの有志を募り発足したものである。ボランティアという位置付けであるが、町では隊員にベストと帽子を貸与するとともに、ボランティア活動保険に加入している。そのため、活動してくださる隊員については把握しているものの、見守りの時間や場所、活動スタイルについては、町が具体的な指定などをしていないのが現状のようだ。

 今年6月、町内の農業用水路に小学生が転落する事故が発生した。近くにいた隊員が子どもの声に気付き、無事に救出してくださった。田植えの時期で、水路には大量の水が流れていた。転落したことに気付かず、その先の1・2m下流の暗渠となったトンネルに流されていたら、一大事になるところであった。私も現場を見たところ、想定外ともいえるわずかな隙間から転落したようだが、事なきを得たことに胸をなで下ろした。即日、進入防止柵を施して再発防止策を図ったところである。

 子どもの通学時のみではなく、また子どもたちに限らず、いつでもどこでも多くの町民同士が互いに見守り合いをしていくことが、安全安心なまちづくりにつながっていくと強く感じた。

第3回 2022年 9月  ありがとう、消防団 

 毎年9月1日は防災の日と定められている。これは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災に由来する。本災害は死者・行方不明者10万5千人余と記録され、近代日本における最大規模の被害を残した。また、この時期は台風も多く襲来することから「災害への備えを怠らないように」との戒めも込められている。「防災の日」の制定後は、全国各地で防災訓練が行われる日となっているようである。

 本町も防災の日直前の日曜日に、町災害対策本部・自主防災組織・町消防団などが連携し、防災訓練を行っている。その中でもとりわけ、町消防団の地域に密着した組織力と統率力そして機動力には、有事の際に大変期待するものがある。町消防団員は、それを業としている消防署員とは異なり、会社員・自営業などの本業を持っている。しかし、ひとたび火災や大規模災害が発生した時は、自宅や職場からいち早く現場に駆け付ける。その位置付けとしては、地域での経験を生かした消火・救助活動を行う非常勤特別職の地方公務員である。条例により、現在の町消防団員の年齢制限は18歳から50歳までであり、団員定数は143人と定められている。しかし、現在の団員数は107人であり、36人が欠員となっている。消防団員のなり手不足は本町のみならず、全国的な課題であるようだが、ぜひとも使命感にあふれた有志の入団を心から望むものである。

 阪神・淡路大震災において、消防団は消火活動、救助活動、危険箇所の警戒活動など、幅広い活動に従事した。日頃の地域に密着した経験を生かして、倒壊家屋から数多くの人々を救出した活躍には、特に目覚ましいものがあったと聞いている。広域でしかも同時多発的に災害が発生すれば、当然のごとく消防署だけでは対応不可能だろう。「自分たちの町は自分たちで守る」の崇高なる精神のもと、若き力に期待するところである。

 私たちは、地域の実情をよく知る消防団の役割の重要性を再認識するとともに、消防団員の有事に備えた日頃の努力に感謝の気持ちを忘れてはならないと強く感じる。

第2回 2022年 7月  ダンゴムシの迷宮脱出方法 

 もうすぐ4歳になる孫が指につまんで私に見せに来たものは、なんと「ダンゴムシ」であった。

 私にとっては直接素手でつまむ気にはなれない虫だったが、興味津々の幼子に「汚くて気持ち悪い」という勝手な先入観を与えてはいけないと思った。そのため「まん丸になっているね、足がいっぱいあるね、よく見つけたね、どこにいたの、なんという名前だろう」などと興味を示し一緒に観察した。その後、見つけた場所に案内され石をどかすと、ダンゴムシがうじゃうじゃ、おまけに小さなナメクジらしきものまでいた。じめじめした場所は不潔そうで触る気にもならなかったが、結局捕獲を手伝うことになった。数匹だけにしてもらい、ガラス瓶容器に入れてあげた。家に持って帰ろうとしたので「このままではおなかがすいて死んでしまうよ、ダンゴムシは何を食べるのかな」ということになり、調べた結果、捕獲場所にあった枯れ葉や台所の野菜くずを入れた。

 調べた記事にはダンゴムシの生態や習性などが書かれていた。面白くなって調べ続けると「ダンゴムシの交替制転向反応」という言葉が出てきた。私には初耳の言葉だった。簡単に説明すると、迷路に入れたダンゴムシは、最初の分岐で右に曲がると、次は左、その次は右というように、高確率で左右交互に曲がる習性があるのだ。天敵から逃げるための行動だとか、広範囲に餌を探すためなどと考えられているようだ。その他に、右にばかり曲がっていると元の場所に戻る確率も高く、窮地からの脱出も困難になるためという説もあった。

 人生には取るべき選択に迷うことが多々ある。行政運営もしかりである。一方を立てれば他方が立たない。価値観も多様化している。利害が対立したときに誰もが納得できる方策はあるのか。既存の価値観だけに頼っていたら、堂々巡りのジレンマに陥ってしまいがちだ。誰もが腑に落ちるような新たな価値観を発想できないものか。

 左右交互に進路を変えて迷路脱出を試みるダンゴムシに脱帽だ。

第1回 2022年 5月 舞台裏

 「浮世舞台の花道は表もあれば裏もある。花と咲く身に歌あれば 咲かぬ花にも唄ひとつ…嗚呼… 染みるねぇ…」こんな語りに乗せて演歌歌手が歌唱する「演歌の花道」というテレビ番組があった。独特な口調のナレーションが演歌特有の世界を醸し出していた。

 「演歌」という歌の起源は「明治時代の自由民権運動において政府批判を歌に託した演説歌の略」と書かれていた。私の知っている演歌とは歌としての役割が異なっていたことに驚いた。これは演歌が日露戦争頃から流行歌としての性格が強くなったためであった。その他に「日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な歌曲の分類の一つ」とあり、「艶歌」や「怨歌」という言葉も見たことがあり、義理人情、男女の情愛、日本の地域性などをテーマとしたものが多く見られているため、この意味は理解した。古いやつだと思われるかもしれないが、私は演歌好きの中の1人である。小節をきかせたマイナーな曲調は情緒的で、歌詞には人生の悲哀となまめかしさを感じる。

 「浮世舞台の花道は表もあれば裏もある…」、演奏会や舞台などで、観客は役者などの表舞台の人間しか見ていないが、舞台裏では大道具、照明、音響など多くの人々が汗を流している。表舞台の華やかさは、舞台裏で働く人々によって支えられている。社会においても表舞台には出てこないが、それぞれの役割を裏で果たしている人々によって支えられている。

 最澄の残した言葉に「一隅を照らす。これすなわち国宝なり」という言葉がある。これはみんなが気付かないような片隅で社会を照らしているような人が、国の宝であるという意味だ。一つの小さな光がたくさん集まって私たちの暮らしや社会が成り立っている。一つひとつの小さな光は夢や希望、誇りなど、生きる喜びで輝いてほしい。その輝きこそいとおしい人生そのものだろうと思う。

 今朝の新聞では、ロシア軍のウクライナ侵攻による民間人への非人道的残虐行為が非難されていた。武力による理不尽な行為でかけがえのない光を消してしまったことに、悲しみと戦争の悲哀を強く感じた。一人ひとりの家族との暮らしやこれからの未来が容赦なく消されてしまった。 

 異論を排除する権力の怖さと醜さを見たようだ。